Covid-19 NY Diary Preview
「Covid-19 NYダイアリー」 プレビュー
CUBE New York読者の皆様のために、チャプター1を公開しております



Chapter 1
Rachel
レイチェル: ヘッジファンド勤務


3月1日、 日曜日
 今日の夜、NY初のコロナウィルス感染者が出たとニュースが報じた。 ハワイやテキサスのように一足先に感染者が出ていた州では、マスクやハンドサニタイザーが完売して、トイレットペーパーや食糧を買い溜めする人たちが増えているらしい。
 未だオンラインでは食糧もトイレットペーパーも手に入るから、早速纏めてオーダーしておいた。 NYの感染者は未だ1人とは言え、両親がニュースで知る前に心配しないように連絡しておいた方が良いかもしれない。


3月2日、 月曜日
 オフィスでは「遂にNYでも感染者が出たか!」とコロナウィルスの話題で持ち切りだった。
感染者はグランドセントラル駅を利用していたらしいから、アッパー・ウエストサイドから地下鉄の1ラインで通勤する私とは無関係。 誰も感染を深刻には捉えていない。

 私が務めるのは 8年前にスタートして、全従業員が13人の小規模なヘッジファンド。
3年前に大手銀行を辞めて、8人目のスタッフとして入社した。オフィスが位置するのはマンハッタンのアヴェニュー・オブ・ジ・アメリカスとも呼ばれる6番街の47丁目。 6番街を隔てた反対側にダイヤモンド・ディストリクトがあるエリア。 ミッドタウンの6番街はオフィス街で、金融、広告、マーケティング会社が高層ビル内にオフィスを構えている。
 私の会社は、最年長のマネージャーが44歳、私を含め殆どが30代の若い会社。 通勤のドレスコードが大手銀行時代よりずっとカジュアルで楽だけれど、メンターと呼べる存在が居ないのと、金融業界独特のボーイズクラブ的なカルチャーがある。 だから、そろそろキャリアをステップアップするためにも新しい仕事を探そうと思っていたけれど、コロナウィルス感染が広がったら、その計画が狂ってしまう可能性がある。

 2020年2月13日には、ダウ工業平均株価が史上最高値を付けて、3万ドルは時間の問題と話していたのが翌日のヴァレンタイン・デイ。 ところが世界的なウィルス感染の懸念から2月最終週には5日間の取引でダウが12%も下落。これは2008年、前回のファイナンシャル・クライシス以来の下げ幅だ。 ダウとS&P500を合わせると、失われた企業株価は3兆ドル。世界で最も裕福なトップ500が失った資産の合計は444億ドル。 「貧富の差が僅かに狭まった」という皮肉が聞かれたのがこの時。 NYで最初のコロナウィルス患者が出たのがその週末だから、タイミングとしては最悪だと思われたのだ。


3月4日、 水曜日
 NYの感染者数が増えているので、日頃2ドルで買えるハンド・サニタイザーをインターネットで24ドルも払って買ってしまった。
 ニュース番組では地下鉄を利用する際の感染防止の手立てを紹介していたけれど、こんな時に地下鉄に乗るなんて論外だ。 明日からはお金が掛かるけれどUber通勤を始める予定。


3月6日、 金曜日
 今朝、Uberを利用したらドライバーが車の中で咳をしたので、しばらく呼吸が出来なくなってしまった。もしドライバーがコロナウィルスに感染していたらと思うと恐ろしくなって、 昼休みに小雨が降る中、5番街のアディダス・ストアまで足を延ばしてスニーカーを買ってきた。 そして仕事が終わる頃には雨が上がっていたので、早速それに履き替えて、初めてオフィスから歩いて帰宅した。
思ったより簡単に歩けた。ウィルス感染が一段落するまでは徒歩通勤にしよう。

 マンハッタンは、20ブロックが1マイル(1.6キロ)でデザインされている。
 女性が普通に歩くと、1ブロックは約1分。オフィスから私が住むアッパー・ウエストサイド、ブロードウェイ96丁目までは、地図上の縦の移動が49ブロック、 横の移動が約5ブロック。 マンハッタンでは 「横1ブロック=縦の2ブロック」で計算するので、オフィスから自宅までは約60ブロック、距離にして3マイル(4.8キロ)、 約1時間歩く計算。 この距離は大学時代テニス部に所属した私が 練習の終わりに走っていた距離。
 10年以上が経過した今では、週にヨガ・クラスに2回出掛ける程度の運動量。でも歩くのは好きだから スニーカーさえ履いていればこの距離は問題ない。 コロナウィルス感染が防げて、運動不足も解消できるのなら一石二鳥だ。


3月7日 、 土曜日
 午前中にヨガ・クラスを受けた後、リンカーン・スクエアの行きつけのレストラン、ザ・スミスで友達とブランチ。徒歩通勤の話をしたら「シティバイクを使えば?」と言われたけれど、 自宅アパート傍のシティバイクのパーキングにはバイクが1台も停まっていないことが多い。だから自転車通勤は時間が読めない。
 NYでは1週間足らずの間に感染者数が86人に増えたことから、今日、緊急事態宣言が出された。
 ブランチの後は備蓄食糧調達のためにトレーダー・ジョーズへ。混んでいると分かっているブロードウェイ72丁目店を避けて、自宅に近いコロンバス・アベニュー92丁目店に行ったけれど、 ここも入店まで30分待ちの大行列。でも万一に備えて、我慢して並ぶしかなかった。


3月9日、 月曜日
 徒歩出勤なので、時間にゆとりを持っていつもより50分早く家を出た。コロンバス・サークルまでブロードウェイを下って、そこからセントラル・パーク・サウスを通って6番街に入るというルート。 ブロードウェイ80丁目にある老舗デリ、ゼイバースには頻繁に買い物に行くので ゼイバースまではあっという間だ。 それを通り過ぎると70丁目代はシタレラ、フェアウェイ、68丁目には土曜日にブランチをしたスミス、そしてリンカーン・スクエアの映画館があって、右手にリンカーン・センターが見えてくれば、 タイムワーナー・センターがあるコロンバス・サークルはすぐ傍。
 交差点を渡ってセントラル・パーク・サウスを歩くと、ビジネス・ディナーで良く出掛けるイタリアン・レストラン、Marea/マレアがあって、名物メニューのラグー・パスタの味を思い出しながら、 NYスポーツ・クラブの前を通り過ぎる。6番街をダウンタウンに向かって下り始めると、58丁目の東側コーナーで目を引くのが比較的新しいホテル、ワン・セントラル・パーク。 ここの1階のレストラン、Jam/ジャムは 見た目が素敵で一度はトライしたいと思いながら未だ実現していない。
 時計を見ると未だ8時25分。スターバックスでコーヒーを買って、それを飲みながらオフィスに到着したのは8時45分。いつもより5分早い。
 朝のミーティングで話し合われたのが WFH (Work From Home / ワーク・フロム・ホーム)、すなわち自宅勤務に備えた本格的な対策。 先週の段階で既にスタッフの間では話題になっていたけれど、実践を踏まえた準備が始まったのがこの日から。 全員がラップトップにZOOMなど必要なアプリをダウンロードし、データを移す作業に終始した。 全てが終わってオフィスを出たのは6時15分。今から60ブロック歩くことを考えただけで気が遠くなってしまった。
 朝は気持ちよく歩ける道も、仕事の後だと足が重たい。ブロードウェイ72丁目の地下鉄の駅を通過する頃には既にクタクタ。 料理をする元気もないので、76丁目のシタレラでサラダとパン、スープ、そしてデザートにエクレアを買って家に帰った。 シャワーを浴びてディナーを済ませた私は、ベッドでタブレット片手に、ネットフリックスで観たい映画を選んでいるうちに眠ってしまった。


3月10日、 火曜日
 今日も早めに家を出てオフィスに向かって歩き始めた。ところがゼイバースが近づいてきた82丁目の交差点で、スニーカーのつま先が何かに引っかかったような感触を覚えた途端、足がもつれて転んでしまった。 幸い車は来ていなくて、傍を歩いていた人が心配して立ち上がるのを手伝ってくれた。どうして転んだのかは自分でも分からない。手を擦りむいてしまったのと、転んだ動揺で歩くペースが遅くなってしまったので遅刻。 明日からは安全のためにもルートを変更してセントラル・パークの中を歩こう。

 今夜は、久々にコーネル大学 MBA(Master of Business Administration/経営学修士)課程時代のクラスメート達と、MePa(ミートパッキング・ディストリクト)のパスティスに集まってディナー。 パスティスはこのメンバーのお気に入りで、集まる時は必ずパスティスと決まっている。そして全員がメニューを見ずにステーキ・フリートかチーズバーガーをオーダーする。
 グループは私を含む男女3人ずつの6人だけど、ここからは一組もカップルが生まれていない。4年制大学時代と違って、マスター・デグリー課程では皆がシリアスだ。 その後のキャリアのために猛然と勉強し、有益な交友関係を広げ、休みに入ればインターンとして働く。 そんな中から生まれた友達グループなので、定期的に集まる最大の目的は情報交換だ。 言うまでもなく全員が金融業界で働いている。 金融は人の入れ替わりが多い業界なので、キャリアにシリアスな人ほど同業者とのネットワーキングは欠かさない。
 一緒に経済について学んだ仲間でも、金融業で働くうちに それぞれが世の中と経済についていろいろな考えを持つようになってくる。 大手銀行に勤め続けているメンバーは、やはり保守的で頭が固い。金融で働く人間の思想は大きく2つに分類される。 中央銀行制度を支持するか否定するか。その論議になるといつもこのグループは熱くなる。

 でもこの日の話題はもっぱらコロナウィルスの感染、経済への懸念に終始した。メンバーの1人は、本来なら今週末からテキサス州オースティンで行われる毎年恒例の SXSW(サウス・バイ・サウス・ウエスト)・カンファレンス&フェスティバルに出掛けているはずだった。しかしコロナウィルスのせいでイベント自体がキャンセルされた。 SXSWは 2019年にオースティンに約3億6000万ドルの経済効果を生み出したことを思うと、これは単なる感染問題だけでは済まされない。
 ”マーチ・マッドネス”と呼ばれるNCAAトーナメント(アメリカ大学バスケットボール選手権)やNBAの試合が、観客無しで行われるかもしれないことも話題になったけれど、 グループ全員が来週からはWFHになるので、次回はZOOMで自宅からの遠隔キャッチアップをしようということで解散。 帰りはチェルシーに住むジョシュと途中までキャブをシェアした。
 彼と私は考えが似ているので気が合う。お互いセントラル・バンキング・システムには反対派で、彼は大手投資銀行を辞めて、 今はクリプトカレンシーやブロックチェーンのスタートアップを中心に投資をするベンチャー・キャピタルに勤めている。 彼には私がキャリア アップの転職を望んでいることを話していたので、タクシーを降りる間際に 「皆の前では言うのを控えていたけれど、もし興味があったら、紹介できるところがある」と言ってくれた。 コロナで状況が変わらなければ良いけれど。


3月11日、 水曜日
 今日からセントラル・パーク内を歩く徒歩通勤を始めた。
 セントラル・パークはマンハッタンの面積の6%を占めていて、59丁目から110丁目までのマンハッタンの中央に細長く位置して、アップタウンをイーストサイドとウエストサイドに分断する公園。 公園内を1周する舗装道のループは丁度10キロでデザインされていて、第1回目のニューヨーク・マラソンはそのループを約4.3周するのがコースだった。
 私の自宅アパートからは、96丁目を真っすぐ東に向かって歩くとパークの入り口。そのすぐ目の前に見えるのが30面のテニス・コート。ここはビリー・ジーン・キングのような往年のプレーヤーが頻繁に練習にやってくるだけでなく、 2018年の全米オープンの際にはロジャー・フェデラーも練習に訪れた。 私も大学時代のテニス部のチームメイトと以前はよくプレーをしていた場所。 今でもテニス・コートの傍を通りかかる時は、少し立ち止まってプレーをしている人たちを眺めてしまう。
 セントラル・パーク内は、舗装道のループを歩いている分には決して道には迷わない。道なりに歩くだけでパークの南端にたどり着く。 それにニューヨーカーならパークの周辺の景色を見れば、大体自分が何処にいるかが分かる。自然史博物館の前を通れば80丁目、故ジョン・レノンの自宅で、彼が銃弾に倒れた場所でもあるダコタ・ハウスが見えてくれば72丁目、 タバーン・オン・ザ・グリーンは65丁目。そこに差し掛かる頃にはコロンバス・サークルのタイムワーナー・センターが大きく見えてくる。 土地勘が無くても、公園内のストリート・ライト(電柱)には、そこが何丁目かを示す番号が小さく入っているけれど、これはあまり知られていない。
 公園内の舗装道の大半には歩道が設けられているけれど、それが無い場所ではランナー用レーンを歩くことになる。 そこではランナーたちがどんどん私を追い越して走っていく。 軽快に広い歩幅で飛ぶように走るランナー、小さな歩幅でゆっくり走る年配のランナー、カップルのランナーも居れば、サッカーボールを蹴りながら走る人も居る。 自分の思い思いのペースで走っているランナーを見ているうちにふと考えた。
 「私は何時から走らなくなってしまったんだろう?」、「未だ走れるだろうか?」。

 夜はクライアントのN氏の招待で、ハドソン・ヤーズ内の高層ビルの101階のレストラン、Peak/ピークのオープン初日のディナーへ。
 ハドソン・ヤーズは、250億ドルを投じたロックフェラー・センター以来の大開発プロジェクト。 ハドソン・ヤーズが位置するのはマンハッタンの10番街から12番街の間、30丁目から34丁目にかけてで、28エーカーという NY市ではあり得ないほど広大な敷地面積を誇る。何故そんな広い土地が未開発で残っていたかと言えば、そこがNYの地下鉄を運営するMTAの電車の駐車場として使用されていたためだ。  その開発権を2008年に10億ドルという超バーゲン価格で買い取ったのが、ハドソン・ヤーズ開発の中心的存在となった リレーテッド・カンパニー。 オーナーのスティーブン・M・ロスはビリオネアで、全米の大開発を手掛ける不動産業界の超大物。 NYではタイムワーナー・センターを手掛けたことで知られている。 全米に展開するアップスケール・ジム、”エキノックス” のオーナーでもあり、セレブも通うスピニング・クラス、“ソウル・サイクル”も買収している。
 リレーテッド社によるハドソン・ヤーズ開発権の買い取りに際しては、裏でかなり汚いお金が動いたことは当時NYのメディアが報じていたこと。 線路を排除して開発可能な状態にするのは、本来なら安く土地を手に入れたリレーテッド社の負担で行うべきもの。 しかしそれを支払ったのはNY市政府、州政府、要するにニューヨーカーの税金。しかも 地下鉄7ラインをハドソン・ヤーズまで延長する60億ドルのプロジェクトまで税金で賄われた。 にも関わらずリレーテッド社が巨額の税制優遇措置を受けたのは金融や不動産の世界ではよく知られる話だ。

ハドソン・ヤーズは2019年3月にファースト・フェイズが一般公開されて以来、ニューヨーカーの間では極めて評判が悪い。 理由はNYでオーガニックに誕生した他の名所とは異なり、ハドソン・ヤーズは無機質で、アトランタやヒューストンなど、何処にでもありそうなアップスケール商業施設であるため。 NYらしさが感じられないだけでなく、貧富の格差拡大を象徴する施設というイメージもある。
 ハドソン・ヤーズ内のオフィス・コンプレックスにはロレアルが本社を移転し、ショッピング&レストラン街にはニーマン・マーカスやカルティエ、ロレックス等の高級店、ミシュラン3星シェフ、トーマス・ケラーのレストラン ”タク・ルーム” からシェイク・シャックまでが入っていて、敷地内にはカルチャー・センターもある。 レジデンシャル・ビルのコンドミニアムは、2ベッドルームが432万ドル、ペントハウスが3200万ドルと聞いたけれど、これは先に売り出された安い方のコンドのお値段だ。

 N氏はハドソン・ヤーズを開発したリレーテッドの投資家で、オーナーのスティーブン・M・ロスとも親しい熱心な共和党支持者。 うちのヘッジファンドのマネージャーの父親と親友で、夫人とは10年前に死別している。 アートとワインが好きで、うちのオフィスが接待ディナーに招待すると、必ずオークション・ハウスの美人セールス嬢を同行してやってくる。 逆にオークション・ハウスがN氏を招待するイベントには私を連れて行くことがある。
マネージャーには「この世界にはビジネスとエスコート・サービスの区別がつかない金持ちが多いから、どんな関係になってもこじれないようにしてくれ」と釘を刺されている。 でもN氏はセクハラのような態度を取ったことは無い。N氏が口癖のように言うのが 「私はMBAを持つ女性には一目置くことにしている」という台詞だけれど、私の耳にはそのセンテンスが性差別のように聞こえる。 N氏は既に70歳を超えたベビー・ブーマーで、しかも保守右派だ。 私たちの世代にとって、何が性差別に聞こえるかを説明したところでどうにもならない。
 昨年夏には、スティーブン・ロスがトランプ大統領のために寄付金集めのパーティーをハンプトンズでホストしたことから、 アンチ・トランプ派が多いNYで リレーテッド傘下のエキノックスやソウル・サイクルのボイコット運動が起こった。 N氏はそれを「若い世代の愚行」と非難した。 実は私もそれ以来ソウル・サイクルに行くのを止めてしまったけれど、そんなことは口が裂けてもN氏には言えない。

 N氏がオープン前から予約が殺到していたレストラン、ピークのテーブルがリザーブできるのはスティーブン・ロスとのコネクションがあるためだ。 私たちが通されたのは、ダウンタウンとブルックリンを見渡す絶景のウィンドウ・シートで、直ぐ下には「西海岸で最高の高さを誇るオブザベーション・デッキ」という触れ込みのトライアングル・シェイプのバルコニー、Edge / エッジを臨むことが出来る。
 この日のN氏との会話はもっぱらコロナウィルスの話だった。N氏は高齢とあって、1月末から感染を恐れてサウスハンプトンの別宅で生活している。 今日はたまたまミーティングがあったのでマンハッタン入りしたらしい。
「先週末ダニー・メイヤーのMoMAの中にあるレストランで感染者が出たんだ。店を2日閉店して専門業者を雇った大々的な消毒作業を行ったらしい。 これからはビジネスも投資も感染症の時代に合わせて変わることになる」。
 N氏が話しているレストランは、MoMA(NY近代美術館)の中に位置する The Modern / ザ・モダン」のことだ。 ダニー・メイヤーはザ・モダン以外にも、ユニオン・スクエア・カフェ、グラマシー・タヴァーンを傘下に収める ユニオンスクエア・ホスピタリティ・グループのCEOで、ニューヨーカーなら誰もが知る存在。 傘下に収めているバーガー・チェーン、シェイクシャックのIPO(株式公開)でレストランターとして初のビリオネアになった。
ザ・モダンが150件の予約をキャンセルしてまで消毒と清掃を行うに至った理由は、NYのバス、地下鉄、空港を運営するMTAのエグゼクティブ・ディレクター、リック・コットンのコロナウィルス感染が 3月9日月曜に報じられ、その直前に彼がザ・モダンで行われたブレックファスト・ミーティングに出席していたためだ。 リック・コットンと共に感染が報じられた彼の夫人のエリザベス・W・スミスは、私が今朝歩いていたセントラル・パークを保護管理する非利益団体、ザ・セントラル・パーク・コンサーバンシーのプレジデント。 世の中は上層部に行けば行くほど繋がっている。
「もし小さなレストランで感染者が出たら、大打撃ですね」と言うと、 「小さなレストランは感染者が出なくても既に淘汰される時代に入っている。コロナウィルスはその後押しをするだけだ」とN氏はあらかじめ決まっていたかのように言い放つ。 N氏は頻繁に、そして悪気無しにこうした弱肉強食的なことを口にする。裕福な家庭に育ったハーバード大卒にありがちなエリート意識は、うちの会社のマネージャーにも通じるものがある。

 私が大手銀行を辞めて、小規模で、年齢層が若いヘッジファンドに移った理由の1つは、私が「金融大手で働くには正義感が強すぎる」と言われ続けてきたためだ。 それはコーネル時代の友達にも指摘されていて、私のようなタイプは2~3年で大手を辞めてスタートアップやベンチャー・キャピタルに鞍替えをするケースが多い。 今ではベンチャー・キャピタリストでも、ヘッジファンド・マネージャーでも、世直し投資家を名乗る人々が増えて来た。
 今の職場のマネージャーやパートナーも、表向きには世直し投資家的に振舞っている。でも実際にはお金儲けに野心的なだけだ。 特に能力がある訳でもないことは勤め始めてから分かったことだ。親のコネクションが無かったら、おそらく会社の運営が成り立っていないとさえ私は思う。 N氏とてマネージャーを子供の頃から知っていなかったら、うちの大口クライアントになっていなかったように思う。

 ピークでのディナーを終えたN氏と私は、 階下のエッジのオブザベーション・デッキ、そして同じフロアでピークが運営する Edge Bar/エッジ・バーとネーミングされたシャンパン・バーを簡単に見学させてもらってから、 ハドソン・ヤーズの敷地内の別のビル内にある会員制のサパークラブに向かった。 ピークとエッジは30ハドソン・ヤーズというビルのトップ・フロアで、その真向かいにある35ハドソン・ヤーズが、最低物件価格で500万ドルという超高額のコンドミニアムだ。 その中に2019年10月にオープンしたのが WS New Yorkというプライベート・クラブ。 WSはワイン・スペクテーターの略で、このクラブはワイン・スペクテーター誌の発行人、 マーヴィン・シェイクンと前述のリレーテッド社のダイニング部門のトップ、ケネス・ヒンメルのコラボレーション企画だ。
 クラブは、一般人でも食事が出来るWS タヴァーンというレストランを見下ろす アッパー・フロアに位置している。 メンバーにとってはWSタヴァーンの来店客の視線を浴びながら階段を上り、 自分達だけにアクセスが許されるスーパー・エクスクルーシブな空間に向かう瞬間の優越感は格別らしい。
 WS ニューヨークは35ハドソン・ヤーズの住人のためのアメニティではないので、高額コンドの住人でもメンバーになれる訳ではなく、まずは紹介が必要。 そしてバックグラウンド・チェックをパスした後、イニシエーション・フィー1万5000ドル、 年会費7500ドルを支払うことになる。 当然のことながら、ここでのディナーやドリンクは容赦なしに贅沢で高額だ。 膨大なワイン・セラーのセレクションは、 ワイン・スペクテーター誌が90ポイント以上の評価をしたボトルのみのラインナップ。 マスター・ソムリエを2人擁し、料理はミシュラン・スター・レストランから迎えた一流ゲスト・シェフがローテーションで担当する。
 ファイヤー・プレース(暖炉)をフィーチャーした広々としたラウンジ・スペース、高額ワインに囲まれたダイニング・ルームなどのインテリアは、 アップスケール・ダイニング・スペースを得意とするアーキテクト、デヴィッド・ロックウェルが あえてヒップさを抑えた、昔ながらの高級クラブハウスとしてデザインしている。 そのコンセプトは「10歳年上のソーホーハウス」というもの。 でもWS ニューヨークの方が 世界数か国で展開するソーホーハウスよりも、遥かにエクスクルーシブで、財力と権力を持つメンバーが集まる。 「メガリッチが、お金に糸目をつけない友人達と最高の贅沢を楽しむためのプライベート・クラブ」というコンセプトなので、同店のウェブサイトはメンバーでなければ閲覧さえできない。
 そんな高額クラブなので、支払い手段はアメリカン・エクスプレスのセンチュリオン・カード一択と言われている。 AmExで最もハイプレステージなこのカードのイニシエーション・フィーは、2020年1月現在で7500ドル。 年会費は2500ドル。 センチュリオン・カードは、そのカードの色から「ブラック・カード」とも呼ばれるけれど、金融界の一部ではこれを「アフリカン・アメリカン・エクスプレス・カード」と呼んでいる。 黒人層(ブラック)のポリティカリー・コレクトな名称 (アフリカン・アメリカン)を使ったジョークだ。

 この晩、N氏はハドソン・ハーズ内のエキノックス・ホテルに一泊してからハンプトンズに戻るらしく、私には自宅までのリムジン・ライドを手配してくれた。 帰路の車内で、N氏が言っていた「これからは投資も感染症の時代に合わせて変わってくる」という言葉と、 「小さなレストランは感染者が出なくても既に淘汰される時代に入っている。コロナウィルスはその後押しをするだけだ」という言葉を思い出し、何ともいえずに不安な気持が込み上げて来た。


3月12日、 木曜日
 昨晩の夜更かしのせいで朝早く起きることが出来ず、仕方なく Uberを使って出社。同僚には昨夜N氏とハドソン・ヤーズで食事をすることを話してあったので、朝一番にレストランの様子やエッジのバルコニーからのビューなどについて尋ねられた。
 そうするうちに届いたのがN氏からメッセージ。昨日出掛けたエッジのスタッフからコロナウィルス感染者が出たらしい。 でもN氏と私はエッジには5分ほど見学に行っただけ。なので「感染の心配はないと思うが、一応自主隔離をした方が周囲に迷惑が掛からないだろう」というのがN氏からのアドバイス。 そして「エッジは未だオープンしたばかりで、感染を公にしたくないらしいので、このことは口外しないで欲しい」とのことだったけれど、自主隔離をするためには会社に説明しなければならない。
 体調には全く問題は無かったものの、会社からは14日間の自主隔離に入るように指示された。 コロナウィルスは、発病まで14日掛かるというのが一般認識だ。だから14日間は、外に出られず、人とも接触できない。 丁度会社も来週月曜からWFHになる。その初日、3月16日のZOOMミーティングで体調を報告することにして会社を早退した。
 自宅に戻ると突然疲れが押し寄せ、身体がだるく感じられてきた。「もしかしてウィルスに感染しているかも」という不安と、「あんな短時間で感染するはずはない」という考えが交互に頭をよぎる。 気付くとジョシュからのメッセージが届いていた。一昨日タクシーを降りる前に話していた転職候補のコンタクトだった。 紹介してくれたのは、彼が務めるベンチャー・キャピタルが投資をしているスタートアップ。 自宅用医療検査キットを開発する女性CEOの企業で、4年前に設立された。今年中か来年早々にはIPOを目論んでいるらしく、 インベスター・リレーションの担当者を探しているとのことだった。
 でも今の私はそれどころではない。ジョシュにはお礼と共に自主隔離になった経緯を説明して、大事をとって眠ることにした。


3月15日、 日曜日
 私が自主隔離に入ってからというもの、コロナウィルスの影響で NBAのシーズンが停止、NCAA大学バスケットボール選手権がキャンセルとなり、メジャーリーグ・サッカー、メジャーリーグ・ベースボールの開幕が延期になった。 NYのレストランは3月16日の月曜からデリバリーとピックアップのみの営業となり、ジムやヨガ・クラスもクローズ。 ブロードウェイのシアターは3月13日以降閉鎖されて、 バスや地下鉄などの公共交通機関も極力使わないようにと市政府が呼び掛けるようになっていた。
 私は金曜からの週末3日間は、食事とシャワー以外は ずっとベッドに寝転んだまま、タブレットでネットフリックスを観て過ごした。幸いウィルスに感染した症状はない。 でも昼と夜がひっくり返ってしまい、夜中になると目が冴えて来る。眠れずに悶々としていた時に、「これからはビジネスも投資もコロナウィルスの時代に合わせて変わることになる」というN氏の言葉を思い出した。 そこでチェックしたのがネットフリックスの株価チャート。もう一段の下げがある気配だったので、310ドルで200株をリミット注文することにした。 さすがにこの額の投資を決めたら精神的に疲れたようで、その後はすぐに眠りにつくことが出来た。


3月16日、 月曜日
 この日からWFHが始まり、平日は朝9時半からZOOMミーティング、その後は自宅で通常業務を自分のペースでこなすことになる。 ミーティングの直前にN氏からメッセージが入り、エッジのスタッフの感染は自宅静養で快方に向かっていて、一緒に働いていたレストラン・スタッフは特に自主隔離をしていないとのこと。 だから私に自主隔離を勧めたのは大袈裟だったかもしれないと今更のように連絡してきたのだった。 でも会社全体がWFHになった今では、自主隔離をしているようなものだ。
 ZOOMのアプリを使ったミーティングは、日ごろオフィスで顔を合わせているボスや同僚の私生活をこれまでとは違う形で垣間見ることになる。 バックグラウンドに見える本棚のタイトルや、ちょっとした置物、デコレーション、アート等に今まで知らなかった人柄や好み、性格が反映されている。 マネージャーやパートナーは、マンハッタンを脱出してハンプトンズやコネチカットの別宅からのミーティング参加で、バックグラウンドに広がる部屋の景色がマンハッタンのアパートとは比べ物にならないほど広く、窓の外には緑が広がっている。 うちの会社のパートナーに限らず、週末からマンハッタンを離れて別荘や実家に移ったニューヨーカーは多い。子供達の学校もオンライン・クラスになるので、 レストランにもバーにも、スポーツ観戦にも行けず、娯楽が無い今となってはマンハッタンに居る必要は無い。
 NYでは週が明けた途端に、いろいろなビジネスが休業し、レイオフ(解雇)とファーロフ(給与支払停止処分)が相次いだ。 恐ろしい勢いで人々が職を失っていく。こんな状況は前回のファイナンシャル・クライシス(リーマン・ショック)でも見られなかったことだった。


3月20日、 金曜日
 今日、NYでの感染者数増加を受けて、クォモ州知事が “Pause / ポーズ“という意味不明な外出禁止令を来週月曜から実施すると発表した。
 ニューヨーカーは食材や医薬品等の必要な買い出しと散歩やランニングは許されるものの、それ以外の不必要な外出を控えなければならない。 州外に出ることは可能ではあるものの、行った先で14日間の自主隔離を強いられるので事実上のロックダウン状態だ。


3月23日、 月曜日
 WFHの生活は単調でつまらない。 僅か1週間しか経っていないとは思えないし、曜日の感覚が無くなってしまう。 仕事は自分のペースで進めるので、どうしても生活が不規則になってしまう。
 木曜には、先週1週間のアメリカの失業保険申請者数が330万人と発表された。でも手続きが混み合って、何日トライしても申請が出来ない人が多いことから、実際の失業者はずっと多いと言われる。 NYでもレストランの従業員を中心に多くの人々が解雇されている。 これからどうなっていくんだろう。 街中ではマスクをして歩く人が増えてきた。
 金曜にはアメリカ史上最大の2兆ドルの救済金法案が可決された。その中には中小企業に対する助成金も含まれているけれど、その程度では 大した救いにならない。 1人でいろいろ考えていると気が滅入るけれど、それは不規則な生活、気晴らしが出来ない状態でストレスが溜まっているせいだ。
 生活が怠惰になってきたのは私だけではない。 来週からは毎朝のZOOMミーティングが30分遅い午前10時からになった。


4月1日、 水曜日
 エイプリルフール。過去何年もこの日には企業がエイプリルフールのジョークの広告やSNSポストをするのがマーケテインング手段になってきた。 今年はそれを自粛するところが殆どだ。今のご時世だと、平常時には軽く流せるジョークも炎上するリスクが高い。
 私は月替わりと共に生活を一新しようと考えて、この日から毎朝のZOOMミーティングの前にセントラル・パークでランニングをする決心をした。 朝8時に家を出てパークまで歩いて、パーク内のループに沿って走る。しばらく走っていなかったので、まずは10分間走ることを目標にしてタイマーをセットした。 私のペースで10分を走ると約1マイル(1.6キロ)を走った計算になるはずだ。 たった10分とは言え、走り慣れない私には20分のように感じられた。 帰りは走った距離を歩いて戻った。明日からは帰路も走るようにして、徐々に距離を長くしていこう。
 パークで時間を過ごすのはとても気持ちが良い。他のランナーを見ていると触発されるし、ランナーは目が合うとニッコリ微笑んでくれる。 人と接触していない今、そんな笑顔やちょっとしたコミュニケーションで心が和む。
 ランニングから戻ると、シャワーを浴びて コーヒーを飲みながらミーティング。その後は1人で黙々と仕事をして5時にはきっちり仕事を終えて、それ以降は働かないのが私の新しい生活だ。 ZOOMでコミュニケートする友達の中には、「アルコールを飲む量とネットフリックスを観る時間ばかり増えていく」とボヤく声が多い。私もそうだった。 でもこれからはランニングを続けたいから、ワインとネットフリックスとは少し疎遠になろう。
 「こんな時に人と同じことをしていたらダメだ」と自分に言い聞かせる。


4月10日、 金曜日
 65丁目のタヴァーン・オン・ザ・グリーンまでの往復、約60ブロックが問題無く走れるようになった。 距離にして約3マイル(4.8キロ)だ。4月だというのに未だNYは寒い。でも徐々にパーク内で春の花が咲き始めている。 少しずつ日が長くなって、ウィルスの問題さえなかったら私が1年中で一番好きな季節だ。
 先週、新たに660万人が失業保険を申請したとニュースが報じていた。 過去3週間の新たな失業者の総数は1700万人だそうだ。 NYでは毎日600~800人の死者が出ていて、死者数がスペインを抜いただそうだ。 医療現場ではメディカル・サプライが不足しているらしい。 医療の最前線で働く人々は、コロナウィルスの感染テストを受けたくてもテスト・キット不足で受けられないらしい。 マスクやプロテクション・スーツも不足しているので、マスクをリサイクルし、ビニールのごみ袋をプロテクション・スーツ代わりにしている様子がニュースで報じられていた。 そんな風に健康のリスクを冒しながら激務をこなしても、アメリカの看護師の平均的な給与は年収390万円程度で低所得者並み。しかも殆どが健康保険を支給されていないという。 アンケート調査によれば看護師の62%がコロナウィルスの問題が一段落したところで「現在の職場を辞める」、 もしくは「看護師を辞めたい」と考えていて、それは無理もないと思う。
そうかと思えばアッパー・イーストサイドにあるマウント・サイナイ病院のトップは、1月からマイアミの別荘に滞在し、NYには戻っていないというから、同じ医療関係者でも 雲泥の貧富の格差だ。


  4月18日、 土曜日
 連日のようにニュースで映るマンハッタンの街中にはビックリするほど人が居ない。 タイムズ・スクエアも、5番街も、人と車が居て当たり前の場所に それが無い光景は驚くほど違和感がある。  街のエネルギーも感じられない。日頃は煩わしいと思っていた人混みや喧騒が、NYのハートビートだったと実感させられる。
 WFHの生活は本当に退屈で、メリハリがない。 ランニングをして気晴らしをしていなかったら、精神が参っていたかもしれないと真剣に思う。  今は日によって走る距離は3マイルから5マイル。だんだん身体のキレが良くなって、体力に自信が出てきた。何年もの運動不足で身体についていた錆が落ちていく感触が、今の私にとって唯一の幸福感だ。
 今日、アメリカのコロナウィルス感染者は74万人を超えて、死者数は3万9000人以上。 毎週木曜に新たな失業者数が発表されて、今週520万人。過去4週間に2,200万人が失業したことになる。
苦しい経営や休業を強いられる中小企業は、当初は ”PPP” と呼ばれる “ペイメント・プロテクション・プログラム” で政府援助を申請すれば、救済されるかのように思われていた。 PPPは、従業員500人以下の企業をサポートするために設けられた総額3500億ドルの政府ローンで、一定期間従業員を解雇しなければローンの返済義務は無い。言わば資金提供だ。
 でもプログラムは申請受付開始から13日で資金が底をついてしまい、ローンによる救済が本当に必要な小規模ビジネスの97%以上が審査で落ち、中には申請手続きさえ出来ないケースもあった。 替わりにローンが認められたのは、上場企業や、2019年に409億ドルの寄付を集めたハーバード大学、ヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンド等、全くお金に困っていない企業や機関だ。 それらに対して多額のローンが優先的に割り当てられ、審査や手続きをする大手銀行も、手数料として10億ドルを着服していることがニュースになっていた。

 TVのニュースでは家賃が払えないレストラン・オーナーや、解雇した従業員にポケット・マネーから食費を支給した経営者が苦しい内情を語っている。 ファストフードのシェイク・シャックは、世論の批判を浴びてPPPの助成金を返却したけれど、本来なら中小企業を救う目的の助成金は 富裕層の、新車やボートの購入費用になってしまっている。 政府や銀行が弱者を救うと見せかけて、実際には切り落としに掛かっているのが分かる。
 こういうニュースを見る度に、N氏が語っていた「小規模ビジネスは、感染症など流行らなくても淘汰される時代に入っている。コロナウィルスはその後押しをするだけ」という言葉を思い出す。 N氏が語っていたのはビジネスのことだけではない。社会全体の弱者のことを言っていたのだと思う。
 今の私には仕事と収入がある。 でも一体私は世の中の何処に位置するのだろう。 YouTuberの中には、「世の中のトップ0.1%以外は、Soon Or Later、誰もが財産を巻き上げられ、支配される小市民になっていく」 と訴える人も居る。 私たちは社会で普通に生活するだけで、低所得者でも、中流でも、高額所得者でも トップ0.1%に毎月千ドルを支払っている計算になるらしい。 高額所得者なら月千ドルは知らない間に支払っている額だ。でも中流以下はそうは行かない。 低所得者にとっての毎月千ドルは生活費を食い潰されていることを意味する。
 これまでなら「アメリカ人の大半に貯蓄が無い」といった報道を耳にしても、ただのニュースとして聞き流してきた。 でも実際に多くの人々が失業して、家賃も払えず、子供を抱えて感染に怯えている姿を見ると、 世の中に疑問やフラストレーションを感じてしまう。 これも私が必要以上に正義感が強いからなのだろうか。


4月29日、 水曜日
 今週からZOOMミーティングは、月、水、金の週3回になった。スタッフは日を追うごとにカジュアルな服装になってきた。 季節が温かくなってきたとあって、昨今ではマンハッタンを脱出しているマネージャーやパートナーは、ガーデン・ポーチやウォーター・フロントを見渡すバルコニーからミーティングに参加している。
 この日、ミーティングの最後になってマネージャーが、私が一番聞きたくなかったことを発表した。
「Good News、Everybody! うちの会社にもPPPのローンが下りた。皆の給与は政府払いだから、レイオフは暫く無いぞ」。
 腹が立った。WFHになってからというもの、会社の上層部はマンハッタンを出て、ハンプトンでブルジョワ気取り。 そのハンプトンでは、選ばれた大金持ちが 普通と変わらない社交を楽しんでいるらしい。 マネージャーはマンハッタンに残る私たち社員のことを、これまで何度も「自宅軟禁」と蔑む発言をしてきた。 その上に、本来受け取るべきでない助成金を着服して、真面目に働くスタッフのクビを「繋いでやる」と言わんばかりの口調が、私には許せなかった。
「Shame On You!(恥知らず!)」気づいた時にはこう口走っていた。
「Excuse me?」マネージャーは顔をしかめた。当然と言えば当然だ。私は何の躊躇もなく続けた。
「I said shame on you! このローンは本当に経営に苦しんでいる中小企業のためのもの。ハンプトンからZOOMミーティングをしている、マルチ・ミリオネアのヘッジファンド・オーナーが申請するためのものじゃないはず!」
ZOOM画面に映った全員が絶句している。2秒ほどの沈黙がとても長く感じられた。
「I agree with Rachel.(僕はレイチェルに同意する)」と沈黙を破ったのはNo.2のパートナーだった。 「この件は上で話し合うことにする。我々もレイチェルのように社会全体のことを考えなければ」という彼の偽善的な発言でこの日のミーティングが終わった。


5月1日、 金曜日
 前回のミーティングでの私の発言のインパクトは大きかったようだ。 空気がおかしいのが画面から伝わってくる。金曜は毎回ミーティングが短いけれど、この日は連絡事項のみの10分程度。これまでで最短のミーティングだった。


5月4日、 月曜日
 朝9時ピッタリにバイク・メッセンジャー・サービスで、会社から解雇通知が送付されてきた。
 「COVID19の影響で……」と理由が説明されていて、給与はあと5ヵ月、健康保険はあと1年支払われる。 給与が5ヵ月支払われるのは、9月まで従業員をキープすればPPPのローンを返済せずに済むからなのは分かっている。 書面を見ながら「これがコーポレート・アメリカっていうものか」と暫し茫然としてしまった。 でも失望や絶望といった悲観的な気持ちはなく、自分でも驚くほど解雇通知を冷静に受け止めていた。 「これで良かったのだ」とも思っていた。
 解雇はジョシュが紹介してくれた企業にアプローチしろという運命のシグナルのようにも感じられた。 もし採用されなくても、向こう5カ月以内に新しい仕事を探せば良い。幸いネットフリックスの株価は100ドル以上アップしていた。

 N氏が言っていたように「これからはビジネスも投資も時代に合わせて変わることになる」。自宅医療検査キットのメーカーならコロナウィルスのような感染症検査キットも手掛けるのだろうか。 そう思って社名をグーグル検索してみると、既にコロナウィルスの自宅検査キットを製品化して、FDA(食品医薬品局)から承認を受けていることが分かった。 将来性がある会社かは別として、今の私は何か社会のためになる会社で働きいという気持ちで一杯だった。
 駆り立てられる思いでジョシュに電話をして、会社を解雇された経緯を説明して、検査キットの会社を紹介して欲しいと伝えた。 ジョシュは同情するかと思ったら、電話の向こう側で大笑いしている。 「That’s super cool! インタビューの時には絶対今の話をするべきだ。 この会社のCEOはそういうガッツがある人間が好きなんだ」。 彼の楽観的な笑い声を聞くうちに、私もすべてが可笑しく思えてきた。

電話を終えてふと時計を見ると、会社のZOOMミーティングが始まる午前10時になっていた。
スニーカーを履いてセントラル・パークへ向かう。 いつものように走り始めて、肺一杯に公園の空気を吸い込んだ。 これまで自分を抑えつけてきたものから解放されたような不思議な解放感、安堵感を味わいながら、この日初めて土の香りや草木の匂いを感じ取った。 WFHになってからの過去3週間が 3ヵ月のように思えて、その間に考えた様々なことが頭の中を駆け巡って行く。
 タヴァーン・オン・ザ・グリーンを通り過ぎ、パークの南端をプラザ・ホテルを眺めながら走り、ループに沿って今度はイーストサイドをアップタウンに向けて進んで行く。 左手にボートハウスが見えて、さらに走るとメトロポリタン美術館の裏側にたどり着く。私が大好きな美術館。最後にここを訪れたのは何時だっただろう。
さらにイーストサイドを進むと、木々で周囲の建物がブロックされて、とてもマンハッタンとは思えない景色が広がる。 セントラル・パークの北端からは上り坂が始まる。今までは、この登りの急坂を恐れて ここまで来たことは無かった。 5マイル以上走った後で急坂を駆け上がる自信が無かったからだ。でも今日は知らず知らずのうちにその上り坂を走り終えていた。 思っていたほどキツイ坂ではない。私は一体何を恐れていたんだろう。気づくと左手にテニス・コートが見えてきた。
この日私は初めてセントラル・パークの全長10キロのループを完走した。
達成感と満足感で自然に微笑む自分を感じていた。


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執筆者プロフィール
秋山曜子。 東京生まれ。 成蹊大学法学部卒業。丸の内のOL、バイヤー、マーケティング会社勤務を経て、渡米。以来、マンハッタン在住。 FIT在学後、マガジン・エディター、フリーランス・ライター&リサーチャーを務めた後、1996年にパートナーと共に ヴァーチャル・ショッピング・ネットワーク / CUBE New Yorkをスタート。 その後、2000年に独立し、CUBE New York Inc.を設立。以来、同社代表を務める。 Eコマース、ウェブサイト運営と共に、個人と企業に対する カルチャー&イメージ・コンサルテーション、ビジネス・インキュベーションを行う。
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